1. 福島県南会津郡桧枝岐村へ帰る旅

~あの日の自分に帰る旅~

懐かし旅

2013年9月 更新

生まれ故郷の秘境、
福島県南会津郡桧枝岐村へ帰る旅

中学までを過ごした故郷、檜枝岐村。
冬はスキー、夏は川遊びをした楽しい思い出もあるが、同時に豪雪の厳しさや白米への憧れというつらい記憶もある。

第一線で働いてきた50~60代以上の方が、過ぎてきた過去を振り返ると、そこには思い入れのある場所や物がある。そんな懐かしい旅をプロデュース。今回は、南会津の秘境といわれる檜枝岐村(ひのえまたむら)生まれの齋藤弥四郎さんの旅だ。

齋藤弥四郎(さいとうやしろう)さん

1950年生まれ。8人兄姉の4男、姉が4人の末っ子。檜枝岐小・中学校卒業。卒業後、檜枝岐村を出て福島県立喜多方高等学校に進学。大学卒業後、教諭となり、千葉県のいくつかの公立小・中学校に勤務。5年間校長を務めたのち、退職。その後も教育委員会や文化財保護委員などの活動をボランティアで行う。「日本民話の会」会員。

齋藤弥四郎さん

8:00浅草駅出発!

檜枝岐村へは、東武スカイツリーラインから鬼怒川線、野岩鉄道を経由して会津鉄道会津線の会津高原尾瀬口駅で下車。そこから会津バスに乗り約90分で到着する。
今回は、浅草から特急スペーシアに乗車して、鬼怒川温泉駅で乗り換える。会津高原尾瀬口からのバス便も決して多くはないので、早めの接続を目指した。

千葉県在住の齋藤さん。朝8時発の特急スペーシアに乗るには、家を早朝に出なければいけない。

齋藤(以下、齋)「全然大丈夫ですよ。いまは畑で農作業もしていますから!」

とても元気だ。
聞くと、ちかぢか山ガールの娘さんと一緒に登山をする予定もあるとか。

齋「それにしても、特急ははじめて乗りましたよ。お盆に帰ることはあるのですが、あまり特急は使っていないんです。この間は夜行で帰りましたよ」

夜行列車「尾瀬夜行23:55」で帰ったらしい。浅草を23:55に出る夜行列車で、早朝に会津高原尾瀬口駅に着く。しかし、寝台ではないので、眠くなったら椅子で寝るタイプの電車だ。60代の方がゆっくり身体を休めて眠れるわけではないのだが……。

齋藤さんはとても元気だ。

11:05会津高原尾瀬口到着。会津バスに乗る

齋「いつもここまで来ると、ちょっと安心するんですよ。あとはバスに乗るだけだ、ってね」

ただ、ここからまだ90分ほどかかる。
齋藤さんの実家は檜枝岐村でお店を営んでいる。
日用品からお菓子、ジュース、酒、土産物などなどを販売。現在は兄と甥っ子が店を営業。甥が4代目となる。
檜枝岐村で暮らしている兄姉は、ほかに2人いる。

12:25檜枝岐村に到着

役場の近くでバスを降りて、檜枝岐歴史民俗資料館を覗いてみる。
ここには村内から出土した土器や古代から行われてきた狩猟についての解説、また、杓子やヘラを作っていた檜枝岐の林業やソバ・ヒエ・アワなどを作ってきた農作業などについても解説・展示をしている。

齋「檜枝岐村には縄文時代に人が暮らしていた跡があって、小学生のころからとても不思議に思っていたんです。なぜこんな雪に閉ざされてしまうような不便な場所に住みついたのか、と。先生にも質問したりして、結局、大人になるまで縄文人は雪を避け、定住をせず、移動を繰り返していたと思いこんでいました。ですが、どうやらその考えは違っていたようなのです。
これは現在でもいえることなのですが、狩猟の時季というのは秋から雪解けくらいまでなんですね。雪が降れば熊や鹿は足跡を残すし、動きも俊敏ではなくなるんです。動物だって雪に足を取られますからね。そうして獲った動物は、天然の冷蔵庫である雪のなかで保存するというわけです。
雪は天の恵みだったというわけですね。
そして夏には木の実や魚を獲って生活をする。夏は傷みやすい肉は食べなかったのでしょう」


檜枝岐村でもっとも大きな産業は林産業だった。山中に泊まり込んで杓子やヘラを作り、それを販売して生活を支えていた時代もあった。
その展示を見て齋藤さんが言う。
齋「うちの父親もこういうところで作っていた時期がありましたよ。子どものころに覗いたことがあるけど、寒かったな」

ほかに、檜枝岐歌舞伎についての展示や昭和30年代の写真なども展示されていて、懐かしそうに見る齋藤さん。友だちも写っているらしい。

齋「昭和30年代・・・・・・こんな感じですよ、子どものころは」

13:10国道352号線を歩く

齋「昔は砂利道でしたよ」
というバス通りの国道を歩く。

檜枝岐小・中学校を過ぎる。
齋「昔はあの校舎の横にもうひとつあったんですけど、雪崩で潰れてしまったんですよ。でも当時の校長先生が急に臨時休校にしたため、生徒は誰もいなくて怪我人は出ませんでした」

少し歩くと六地蔵がある。
寒冷山岳地の村では昔食料の調達も容易ではなく、餓死者が出ることもあったという。仕方なく子どもを間引きすることもあり、その供養のために建てられたのがこの六地蔵といわれている。

齋「子どものころ、お盆などでお墓参りに行くときなどは必ずここでも線香を焚いてお祈りしていました。ただ普段はこの周りは朽ちた木とかがたくさんあって、もちろん暗かったし、おばけが出るなんていわれていたから怖い場所でしたね」

六地蔵の先には「路傍の大樹」がある。桂、桧、落葉樹が等間隔に並んでいたという。現在は落葉樹は枯れてしまって、ない。
これは檜枝岐村を開村した3人の墓印ではないかと伝えられている。
落葉樹があった場所には確かに墓印らしきものがある。
これは齋藤さんが子どものころにすでにこの状態だったという。
齋「ここもお盆のときは線香を置いて手を合わせていましたね。うちのお墓はすぐ近くにありますよ」

国道に面してたくさんのお墓があり、はじめて見た人は少し驚くかもしれない。
齋「このあたりは昔は人が住む集落ではなかったんですよ。だからお墓がたくさんあるんです。小さいのは昔の土葬のお墓ですね。大きいのは火葬の、現在のお墓です」

路傍の大樹。開村した人の墓印といわれている

13:25檜枝岐歌舞伎の舞台へ

檜枝岐村に約270年、親から子へと代々受け継がれてきた伝統芸能。役者から裏方までを村民が担当する伝統歌舞伎は全国でも珍しい貴重なもの。「檜枝岐歌舞伎」は県指定重要無形民俗文化財に、「檜枝岐の舞台」は国指定重要有形民俗文化財に指定されている。

齋「いまでも上演する時期には檜枝岐に人が溢れるくらいです。でも私が子どものころはあまり興味がなかったですね。子どもに歌舞伎はわかりづらいですからね。
ただ、余興で酔っぱらった青年が出てきて、そのうちに喧嘩になったりするのを楽しんでいた記憶はあります。あと、友だちが一座の娘で、その子が出演するときは興味を惹かれました。
普段はこの舞台の前は子どもたちの遊び場でした。よく野球をやっていました。
舞台にも上がって遊んでいました。天井の梁に登れることが『青年の証』みたいに思っていたんです。私は中学を卒業して村を出てしまったので、結局登れないままでしたね」

13:40実家に挨拶

齋藤さんの実家に到着。
「井桁屋商店」。

齋「いま兄はいないみたいですね。義姉さんがいます。元気そうですね。
檜枝岐では以前火事があった影響なのか、集落から外れたところにせいろう作りの板倉を建てて、大切なものなどをそこに保存していたんです。うちの板倉もあって、数年前になかを整理したら、店の古い売れ残り商品が出てきましたよ」


「井桁屋商店」は日用品やジュース、土産物など幅広い品揃え。お酒の種類もかなり豊富だ。

路傍の大樹。開村した人の墓印といわれている

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