1. 昭和の檜枝岐村。遊び・食・世相

~あの日の自分に帰る旅~

昭和の遊び・食・世相

2013年9月 更新

昭和の檜枝岐村。遊び・食・世相

檜枝岐村で生まれ、少年時代を過ごした齋藤弥四郎さんに子どものころの檜枝岐村について語ってもらった。

昭和の遊び

檜枝岐村のあのころ・遊び

ソリ、スキー、雪上野球

冬は道がなくなるくらいの積雪なので、学校ではいつもスキーやソリをしていました。

また、雪が降ると普段立ち入れないような畑などもすべて覆い尽くしてくれるので、子どもにとってはとても広い遊び場ができたようなものでもあるのです。雪を踏み固めて野球をするのが楽しかったですね。
野球は檜枝岐歌舞伎の舞台前でもよくやっていました。上演しないときの歌舞伎舞台は子どもたちの遊び場でしたね。

小学1年生。雪国ではスキーはできて当たり前

夏の遊びも覚えています。
先ほどお話しした林産所には大量の木挽き粉が山のように積まれていることがあって、そこも子どもたちにとっては絶好の遊び場でした。山に登って遊ぶこともありましたが、木挽きを掘っていくと、カブトムシやクワガタがいるんです。1日10匹くらいは捕れていましたよ。

都会でいう「メンコ」遊びもたくさんしました。ただ、「メンコ」ではなくて「パッタ」と呼んでいました。しかも、絵が印刷された厚紙のものは店で売られている、いわゆる観賞用でした。自分たちが遊ぶものは自分たちで作るのです。材料は使用済みのハガキでした。それを何回か折りたたんだものを使うのです。
遊び方はメンコと一緒。
百戦錬磨の強いパッタを持っていて、大量の戦利品(相手のパッタ)を持っている人は英雄ですよ。憧れのまなざしで見ていました。


子どものころのいちばんの楽しみは、やはり旧暦の1月14日に行われる「歳の神」のお祭りでした。
これは1年間の無事を感謝して、新年の無病息災を祈願する火祭りなのですが、子どもたちがすべてを取り仕切って行っていたのです。中心となるのは小学6年生でした。
メインとなる松を燃やすために積み上げる心棒を切り出したりするのは、高学年の威厳を見せる場でもあったのです。

子どもたちで家々をまわってお金をもらい、火で焼いたちょっと焦げた餅を食べ、クライマックスは心棒の先のしめ縄への点火です。
松が燃え尽きると、自分たちも燃え尽きたように感じたものでした。あの達成感は何物にも代え難かったですね。

思い返してみると、雪に閉ざされ、物が少ない村ですが、子どもにとってはそれなりに充実した日々だったように感じます。
この村で暮らせてよかったと思えます。

檜枝岐歌舞伎舞台は格好の遊び場だった。「ゴムボールで野球やっていました」

昭和の食

檜枝岐村のあのころ・食

米が作れない高地寒冷の村

檜枝岐村は耕作地が少なく、痩せた土地であるうえ、山々に囲まれているために日照時間も少なく、米はまったく作ることができません。子どものころは白いご飯に憧れましたね。
たまによその土地から米が来たときは、貴重なご飯を少しずつ食べるためにほかのものを混ぜて炊いていました。
大根めしは子どもにとっては臭くてたまりませんでした。栗めしはおいしくて好きだったのですが、いちばん多かったのはカボチャめしでしたね。

はっとう。エゴマをまぶしてある

そんな土地で先人たちが栽培して主食にまでなったのが、そばでした。寒く、痩せた土地でもよく育つそばもいろいろな形で調理されました。
つめっこというそば粉で作るすいとんはよく食卓にあがっていたのですが、子どもとしてはたまに作られる小麦粉のすいとんのほうが好きでしたね。そばの香りが強くやや堅めのつめっこよりもまろやかな白いすいとんが食べたかったんです。

また、そば粉と餅米をこね合わせ、会津の名物じゅうねん(エゴマ)を砂糖などと混ぜてまぶした「はっとう」という料理もあります。
エゴマという身体にいいといわれている名物があるので、それを使っていましたが、実は檜枝岐村では里芋と胡麻は作らない決まりなんです。言い伝えとして、村の鎮守神様が里芋の皮で滑り、その拍子に胡麻の切り株で目を怪我したから、以後里芋と胡麻は作らない、と聞かされていました。
まあ、いまとなっては栽培に失敗したのかなとも思いますけどね(笑)。

子どもたちは秋は山に入り、アケビ、栗、グミ、桑、すももなどを採って食べていました。夏は川でカジカなどの魚獲りです。

食と遊びは密接に繋がっていましたね。

やきもち。そばがき団子のなかに入っているのはグミの実

昭和の世相

檜枝岐村のあのころ・世相

産業が少なく自給自足

冬になると雪で閉ざされ孤立してしまうということはいまでも多少ありますが、昭和30年代はいま以上に厳しかったですね。
秋から冬にかけては狩猟の時期で、山人(やもうど)たちは山へ入っていきました。
ただ、肉は自分たちが食べ、毛皮などを敷物にしていましたが、それを他の村などに売って産業にするまでは至りませんでした。
檜枝岐村の唯一の産業は林産業です。
檜の木を加工して販売していました。いま「アルザ尾瀬の郷」があるあたりに林産所がありましたね。
また、ヘラや杓子、曲輪っぱなどを作って売り、生活を支えていた部分もありました。これは私の父も山中に泊まり込んで作っていましたね。

齋藤弥四郎さん。若いころは「檜枝岐村出身」というのが恥ずかしかった時期もあったという

ソバ・ヒエ・アワなどを作る農作業と家の仕事は女性がやります。
村のなかには山から流れてくる生活用水路があり、「堀っこ」と呼んでいました。
上流では食器を洗ったりして、下流の決められた場所で洗濯をするんです。

檜枝岐村全戸に水道がひかれたのは昭和34年。それまでは風呂に水をためるのも、その堀っこからバケツで水を運んでいました。これは子どもの仕事でしたね。流れの速い水路にバケツを入れて水を汲むのは小さい小学生には大変な作業でした。兄姉と一緒に何往復もして、ようやく風呂桶に水が溜まると、木を燃やして沸かします。

風呂は毎日はたかず、親戚と交代でたいてお互いにもらい湯をしていた思い出もあります。
母と一緒に親戚の家へ行き、帰り道には必ず鎮守様を拝みます。この地の祖先や鎮守神様への信仰というのはやはり根強く残っていますね。
私自身も高校時代に檜枝岐に帰ったときは必ずお参りしていました。

山に囲まれた檜枝岐村。昔は暮らしづらさもあった

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