慰霊としてはじまった花火は
いまや夏の風物詩として楽しまれている
東京三大花火大会といえば「東京湾大華火祭」「神宮外苑花火大会」、そして隅田川沿いの河川敷で行われる「隅田川花火大会」だ。
いまや夏の風物詩としてなくてはならない隅田川の花火だが、そもそものはじまりは慰霊の意味が込められていた。
1732年(享保17年)、西日本でイナゴの大群が発生したこともあり大凶作となってしまい、日本を大飢饉が襲う。さらに江戸ではコレラ(当時はあまりにもあっけなく死んでしまうことから、コロリとも呼ばれた)が大流行、多くの死者を出した。
それを受け幕府は、亡くなった人々の慰霊と悪病退散の祈りを込めて隅田川で水神祭を行うことを決める。
ときは1733年(享保18年)5月。両国の川開きの日。この日に慰霊の花火が打ち上げられることとなった。
以降、川開きの日に花火を上げることが恒例となったといわれている。
このときに花火を上げることを許されたのが、老舗を継いでいた六代目が営む、花火師「鍵屋」だった。
老舗であり、六代目のときに水神祭で花火を打ち上げて多くの人から称賛を浴びた鍵屋は、その後も繁栄。名を高めていく。
しかしその後、鍵屋から暖簾分けをした腕のいい番頭が「玉屋」を立ち上げる。1810年(文化7年)のことだ。
現代風にいえば、歴史ある店で修業した者が独立した形だ。もちろんその独立は鍵屋側も応援していた。暖簾分けというのはそういうものだ。
「タマヤー!」「カギヤー!」の掛け声
意味を知っている人さえ少ないかもしれない
玉屋が生まれ、両国の川開きに行われる花火は鍵屋と玉屋の競演となる。
花火が開花したときに、観衆がどちらの花火に軍配を上げるかという意味でその名前を呼んだのが、現代でも僅かに残る「カギヤー!」「タマヤー!」の掛け声だった。いや、現代ではほとんど残っていない、といったほうが正しいか。
当時は上流と下流に分かれた鍵屋と玉屋の花火を見て、自分の判定を叫んでいたのだが、その後は花火を見たときの掛け声として残っていったということなのだ。なかには意味もわからず叫んでいる人もいるかもしれない。せめてこの経緯を知っておこう。
その後の話。
両花火師が競い合って、といいたいところだが、どうやら当時は玉屋に軍配が上がることが多かったようだ。「タマヤー!」の声が圧倒的に多かったという歌も残されているらしい。独立した番頭の技術が高かったのだろう。
ここから玉屋の天下が続く、とならないのがまた歴史の常なのか。1843年(天保14年)、玉屋は火事を出してしまう。自分のところだけではなく類焼によって町にも多大な被害を及ぼしてしまうのだ。出火という重罪によって玉屋は江戸払いとなり追放されてしまった。
結局、江戸の庶民から大きな人気を得た玉屋は、一代で江戸を出て行かざるを得なくなってしまった。30年強という短い期間であった。
それでも江戸っ子は、「タマヤー!」「カギヤー!」という掛け声を続けた。それほど玉屋は愛されていたのだろう。
現在、隅田川花火大会でこの掛け声を上げる人はそれほど多くないだろう。国民的アニメの国民的お父さんは、まだこの掛け声を上げているだろうか。
意味を知ったからこそ、この掛け声を上げたいという人は、ぜひ遠慮なく、迷惑にならない程度に叫んでほしい。
現在は楽しむための花火大会として大人気
マナーを守って夏の思い出を作ろう
その後、鍵屋は両国で花火を上げ続け、世襲は途絶えたものの、その名は残っている。また、江戸を追われた玉屋もその後、暖簾を買った人が引き継いでいる。直系ではないが、名は残っているようだ。
この両国の川開きで行われた花火だが、1962年(昭和36年)まで行われ、翌年には交通事情の悪化によって開催されなくなったという。高度経済成長で、日本人は花火どころではなくなったのだろうか?
1979年(昭和53年)、ようやく「隅田川花火大会」と名称を改めて開催が再開した。その後はご存知の通り。
約2万発のハイクオリティな花火が打ち上げられ、毎年約100万人の観客が隅田川河川敷に集まる大花火大会で、テレビ中継もされている。東京スカイツリー®との競演も見どころで、花火コンクールも行われているほどだ。
見応えたっぷりな歴史ある花火大会。慰霊の心を持ちましょうなんてことはいわないが、今年は掛け声を上げてみるのもいいのでは?
「タマヤー!」「カギヤー!」