東京下町の歴史を楽しんだり、浅草やグルメを堪能しながら観光名所を巡る東京下町の観光情報誌

[2014年4月 更新]

消えた「本所」と本所七不思議

墨田区には、本所区と呼ばれていた地区がある。「本所っ子」とは、かつての本所地域(墨田区南部)に住む人たちが、今でも親しみを込めて呼ぶ愛称だ。
本所という地名は、一体いつ生まれて消えてしまったのだろうか。

消えた「本所」と本所七不思議

関東大震災、戦争からの復興とともに、
変わりゆく町名

時は、江戸時代。隅田川にまだ橋が架かっていないころの話である。本コーナーの「東京下町の代表格『すみだ』の歴史をたどる」でも紹介したが、本所の歴史からもう一度おさらいをしておこう。

かつて隅田川を隔てた東側の南部に本所村という農村があった。しかし当時、江戸が大きく発展するなかでも、この地の開発は蚊帳の外。そんな折、1657年(明暦3年)1月に、江戸市中の大部分を焼き尽くす大火事が起きた。俗に言う明暦の大火(振袖火事)である。
明暦の大火は取り残されていた本所を一変させた。
1659年(万治2年)には、隅田川初の橋となる両国橋が架けられ、東側の開発がはじまった。これを本所開発といい、川岸の回向院では相撲、さらに川開きの花火・・・・・・とにわかに活気づき、両国橋のたもとは、一大繁華街として栄えるようになった。そして明治時代になると、東京市本所区と呼ばれるようになるのである。

本所区成立時には約70の町名があり、本所を冠した名前が多く存在した。しかし旧江戸の町並みを残す本所は、1923年(大正12年)の関東大震災により、壊滅的な被害を被ってしまう。被害の少なかった山の手に比べ、日本橋、深川などの下町はほぼ全滅。本所区は96%焼失した。これにより、江戸市街の名残は完全に消えてしまうのである。
その後の震災復興後の区画整理により大幅な改革が行われ、それに伴う町名改変により本所の名前は一気に減少してしまう。さらに戦後1947年(昭和22年)には、南部にある本所区と、北部にある向島区が合体して墨田区となり、本所区は消滅。本所という町名だけがわずかに残ったのである。

墨田区本所にある吉良上野介邸跡。首洗いの井戸などがある(写真協力/墨田区観光協会)

墨田区本所にある吉良上野介邸跡。首洗いの井戸などがある(写真協力/墨田区観光協会)

旧本所・入江町跡(写真協力/墨田区観光協会)

旧本所・入江町跡(写真協力/墨田区観光協会)

いつの時代も怪奇談は面白い?!
江戸時代に流行した「七不思議」

江戸時代に一大繁華街として賑わった本所の地名は、時代とともに消滅していったが、ここで生まれた「本所七不思議」は、落語や小説などの形をとりながら、いまも語り継がれている。
そもそも江戸末期に生まれた「七不思議」とは、その土地独特の不思議ないい伝えや怪奇談のこと。本所だけでなく麻布、深川、吉原とその土地オリジナルの七不思議があり、これを語るのが江戸っ子たちの楽しみのひとつだった。本所七不思議は、七不思議といっても7つ以上の物語があるうえ、定説もなく、語る人によって伝わり方も異なる。よって舞台も本所一帯のあらゆる場所に点在しているのが特徴だ。
物語が生まれた当時、賑やかな両国橋のたもとに比べ、その周辺は堀や野原が多い薄暗い土地だったため、怪奇談も生まれやすかったのだろう。
本所七不思議のなかでも有名な「置いてけ堀」を紹介しよう。

 よく魚が釣れる堀があって、釣り人が糸を垂らした。
 すると魚がどんどん釣れるので、日が暮れるまで楽しんだ。
 ところが帰ろうとすると、「おいてけーおいてけー」と声がする。
 釣り人は足がすくみ動けない。
 魚籠(びく)を覗くと、釣ったはずの魚がいなくなっていた。
 釣り人は怖くなって逃げ帰るしかなかった。

そのほかにも、「片葉の葦」「送り提灯」「送り拍子」「狸囃子」「足洗屋敷」「消えずの行灯」「落ち葉なき椎」といった話がある。
華やかだった両国橋のたもとや、今はなき本所一帯にあった怪奇伝説に思いを馳せながら散歩をするのも、楽しいかもしれない。

「置いてけ堀」の舞台と推定される場所のひとつである錦糸堀公園。河童の像が建てられている(写真協力/墨田区観光協会)

「置いてけ堀」の舞台と推定される場所のひとつである錦糸堀公園。河童の像が建てられている(写真協力/墨田区観光協会)

東向島も昔は本所だった

東向島も昔は本所だった

まさかこんな塔が建つとは、江戸の本所っこたちは想像もしていなかっただろう

まさかこんな塔が建つとは、江戸の本所っこたちは想像もしていなかっただろう