東京下町の歴史を楽しんだり、浅草やグルメを堪能しながら観光名所を巡る東京下町の観光情報誌

[2014年1月 更新]

東京下町の粉モノ食文化の歴史。「もんじゃ焼き」

関西のソウルフードのように言われがちな「お好み焼き」だが、その発祥は東京下町にあったという説が有力になってきた。その先祖は、駄菓子屋にあった子どもたちのおやつ「もんじゃ焼き」だ。具沢山のもんじゃ焼きとなるまでの変遷を知ろう。

東京下町の粉モノ食文化の歴史。「もんじゃ焼き」イメージ

浅草の歴史ある食文化
粉モノの祖先「もんじゃ焼き」

お好み焼きというと「広島風」や「関西風」があり、特に関西では「お好み焼き定食」という、お好み焼きをおかずに白飯を食べる文化もあることから、発祥は関西と思われがちだ。
しかし実はそうではないという説が有力となってきている。お好み焼き同様、たこ焼きも関西の名物として知られているが、そのいずれもが同じ祖先をもっているようなのだ。

それが、もんじゃ焼きだ。
もんじゃ焼きのさらに祖先を辿ると、やや不明瞭になってくる。

千利休が茶会で作らせた「麩の焼き」というものがある。
これは小麦粉を水で溶き、薄く焼いたものに味噌や砂糖を塗って巻いた茶菓子。粉を焼くという点は共通しているが、まだもんじゃ焼きとはかけ離れている。
その後、江戸末期に味噌の代わりに餡を巻いた「助惣焼(すけそうやき)」というものが生まれた。これが明治に入ってから東京で「もんじゃ焼き」に生まれ変わったという説がある。

土手を作って生地を流し込む「もんじゃ焼き」

小さなヘラを使って食べるのが正式

駄菓子屋で食べる「もんじゃ焼き」
具なし、ソースのみという時代もあった

もともとは間食、つまりおやつのようなもので主食にはなっていなかったもんじゃ焼き。
だが大正時代の関東大震災以後に起こった食糧難のころは、米が手に入りにくく、間食からやや昇格したような感もあったようだ。
しかし昭和の戦後はさらに食糧難がひどくなり、水で溶いた粉を焼いてソースを塗っただけのものとなってしまった。しばらくはこれがもんじゃ焼きの主流となって子どもたちのおやつとして親しまれていた。

具が増えていったのは戦後復興に伴ってのことのようだ。どこの家にもあるような野菜や、少量でも細かく切れば味わいが出るイカ、エビ、肉などを混ぜて焼いたものは、おやつとしてはかなり豪華だ。現代のスナック菓子よりもかなり栄養バランスがいい。

このもんじゃ焼きから生まれたのが、お好み焼きだ。
明治時代、もんじゃ焼きよりも粉の量を増やして固めることで、鉄板の上以外でも食べられるようにしたものが登場。これがのちのお好み焼きになったようだ。

現代はもんじゃ焼きはさまざまなトッピングも楽しめる具沢山なもの

粉を固めにしたお好み焼きは、焼くのに少し時間がかかる。しかし鉄板からお皿に移して食べられるようになった

子どもの駄菓子が大人の食事になった稀有な料理
いまや老若男女が楽しみながら食べるものの定番に

1930年代後半には、東京にお好み焼きを出す店が誕生していたという説がある。全国で最初のお好み焼き屋のようだが、それがどこの店かははっきりとしていないので言及しないでおく。
その後、お好み焼き屋が増えるに従って、戦後から駄菓子屋で子どもたちに食されていたもんじゃ焼きが大人の食事として認知されるようになった。1970年代中期のことだ。
その後1980年代にはもんじゃブームも起き、このころに月島のもんじゃストリートが生まれたといわれている。そのため、もんじゃ焼きの発祥は月島だと思っている人も多いが、駄菓子屋からもんじゃ焼きが広まっていったのは浅草のほうが先だったようだ。「浅草もんじゃ」という言葉も生まれている。

もんじゃ焼きを食べながらお酒を飲むのがごく普通の光景となった東京下町。
もんじゃ焼きから変化したお好み焼きは、いまや女性にも人気の料理。浅草では大きな鉄板を数人のグループで囲んで、みんなでお好み焼きやもんじゃ焼きをつつく様子があちらこちらの店で見られるようになった。

粉モノ食文化は関西特有のものではなく、東京下町にも根ざし、老若男女に親しまれる定番メニューとなっているのだった。

浅草にはかなりの数のお好み焼き屋、もんじゃ焼き屋がある

食事にもなるし、お酒のつまみにもなる。大勢でワイワイ食べるのが楽しい