東京下町の歴史を楽しんだり、浅草やグルメを堪能しながら観光名所を巡る東京下町の観光情報誌

[2013年12月 更新]

東京下町の代表格「すみだ」の歴史をたどる

隅田川に荒川、中川と河川に囲まれている墨田区。東京下町を代表する町でもある「すみだ」は、江戸の大火、大正の大震災、昭和の大戦と三度に渡る焼失からの復興を遂げ、そのたびに逞しく息づいてきた歴史がある。

東京下町の代表格「すみだ」の歴史をたどるイメージ

東京下町の文化や産業発信地「すみだ」
現在の姿はどうやって形づくられたのか?

向島、押上、両国、錦糸町・・・・・・東京下町を代表する町をいくつも抱える墨田区は、西は隅田川、東は荒川に中川と、川に囲まれた町だ。
「すみだ」の名は行政区の名称であることはもちろんだが、それだけにとどまらず、東京下町の文化や産業発信地の代名詞としての役割も担っているといえるだろう。
そんな墨田区の歴史を簡単に振り返ってみよう。

ひとくちに墨田区といっても、北部と南部とでは辿ってきた歴史が異なる。
北部は古く平安時代から陸地化しており農村として発展していたが、南部の大半は湿地帯だったため、人々が暮らせる土地ではなかった。

その南部が人の住む都市として開発されるきっかけになったのが、1657年(明暦3年)の明暦の大火である。振袖火事とも呼ばれるこの火事は、江戸市街のおよそ6割を焼き尽くし、戦禍や震災を除くと、日本の有史上最大の火災といわれている。
焼失した江戸の町は、防火対策を軸に都市計画が進められ、1659年(万治2年)には両国橋など隅田川への架橋が行われた。
また、武家屋敷や大名屋敷、寺社などの移転先に選ばれたことで、ようやく南部も江戸の市街地の一部へと変わっていった。

隅田川と東京スカイツリー®

現在にも継承されるすみだの
風物詩が次々と誕生した18世紀

時は流れ、18世紀には歴史的事件や、現在にも受け継がれるすみだの風物詩が続々と誕生した。
まず、忠臣蔵として知られる赤穂浪士の吉良邸(本所)への討ち入りは、1702年(元禄15年)のこと。
1717年(享保2年)には、当時の将軍吉宗によって墨田川堤に桜が植樹され、花見の名所として庶民に親しまれるようになる。
また1733年(享保18年)には隅田川の花火が、1781年(天明元年)には本所で大相撲がはじまった。

これまで、河川による水害に悩まされてきたすみだだが、その河川の整備を行い、運河としての水利を生かして、瓦、染色、材木、鋳物など、次々と地場産業を発展させていった。

明治時代に入ると、北部は南葛飾郡の一部に編入、南部は東京15区のひとつである本所区として成立する。工業化が進み、紡績、精密工業、石けん、製靴、金属玩具、ガラス、ゴムなどの製造業が発展した。

そして1894年(明治27年)、ついに鉄道が乗り入れ、交通網が開けていく。

本所松坂町公園(吉良邸跡)

水路を生かして産業を発展させた

歴史、伝統文化、産業、観光・・・・・・。
東京下町の活気と風情が凝縮する町

1923年(大正12年)、関東大震災によって本所区は9割以上を焼失してしまう。しかし、この惨状からも復興を遂げ、1932年(昭和7年)に北部は向島区となる。
ところが第二次世界大戦で、すみだの大半は再び廃墟と化してしまった。

戦後間もない1947年(昭和22年)、北部の向島区と南部の本所区が合併、現在の墨田区が誕生した。区の名称は、墨田川堤の通称、墨堤から「墨」を、隅田川から「田」を取ったものだ。

昭和30年代の高度成長期は工業をはじめとする地場産業で支えた。
江戸からはじまったものづくりが、すみだを産業の町として確立させることになる。

日本を代表する絵師・葛飾北斎や江戸城無血開城を成し遂げた勝海舟はすみだの生まれだ。
そんな歴史上の人物にゆかりの深い地であり、隅田川花火大会や両国国技館での大相撲など、江戸時代から脈々と受け継がれてきた伝統文化は、すみだの風物詩であり、すみだの新たな産業である観光業の立役者でもある。

たび重なる災害を乗り越えてきた「すみだ」には、東京下町の活気と風情が凝縮されている。
歩いているだけで元気づけられるこの町をぜひ訪れてみてほしい。

焼失と復興を繰り返してきた「すみだ」の町

昔ながらの小路からも東京スカイツリー®が見える