東京下町の歴史を楽しんだり、浅草やグルメを堪能しながら観光名所を巡る東京下町の観光情報誌

[2013年9月 更新]

江戸の風情を残す観光地、浅草から栄えた東京下町文化

「東京下町」は広いので、まずは浅草と江戸城周辺の話から。浅草寺の成り立ち、そして徳川家康によって進められた江戸城修復と周辺の陸地化。水路の活用によって東京下町の経済と文化が発展していった。

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江戸の風情を残す町、東京随一の観光地「浅草」
ところで、この賑わいはいつからはじまったの?

江戸の風情を残す東京下町の顔として、浅草は人気のエリアだ。
国内のみならず、海外からの観光客もひっきりなしに訪れる、いわずと知れた観光スポットだ。
いつ訪れても活気のある浅草の歴史は、いったいいつごろからはじまったのだろうか?

浅草といえば、やはり浅草寺だろう。
浅草寺の創建は628年(推古天皇36年)、宮戸川(現在の隅田川)で漁師をしていた檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟が、網で仏像を引き上げたことにはじまったという。
これが浅草寺本尊の聖観音(しょうかんのん)となる。
兄弟の主人だった土師中知(はじのなかとも)は、出家してこの像を自宅に拝した。そして自宅を寺に改めたのが浅草寺のはじまりだと伝えられている。

浅草が観音様の町となった由来に思いを馳せながら、雷門をくぐり、仲見世の商店街を抜け、宝蔵門、本堂と歩いてみるのもいいだろう。

雷門近くは、常に多くの観光客でごった返している

浅草はなぜ東京随一の繁華街になったの?

さて、時は進み1590年(天正18年)。
埋め立てによる陸地化が進行しつつあった江戸に徳川家康が入ってくる。このころはまだ、江戸城の真下にまで湾が入り込んでいた。
家康は江戸城の修復と周辺の陸地化を急速に進めていく。そして、浅草の東側は海だったため、物資を江戸に運び込むための港として注目した。浅草のほか品川の港も物資の運搬に大きく貢献したらしい。
ちなみに、江戸を流れる河川も現在より広大だったため、航海術が発達するまでは、海路と並んで物流の手段として活用されていた。

1603年(慶長8年)、江戸幕府が開かれると、浅草一帯はみるみる発展していった。
浅草御蔵(現在の蔵前)に米蔵が作られ、米の仲介人である札差(ふださし)が誕生する。両国周辺には商店が増え、浅草一帯は江戸でもっとも人や物、そして金の集まる町になった。

その後は、関東大震災や第二次世界大戦で壊滅的な被害を受けながらも、たくましい復興を遂げ、いまもなお江戸の風情と下町情緒を残す町として変わらぬ賑わいを見せている。

まさかこの東京下町の地にスカイツリーという超高層のランドマークが建つことになるなどとは、江戸の商人たちは想像だにしなかっただろう。

浅草の町から見える東京スカイツリー®

浅草寺の西側の食通街。老舗の飲食店が並ぶ

ところで、東京下町ってどのあたり?

ところで、東京の下町と聞いて連想する町はどこだろうか?
どうも感覚的なイメージが先行して、実は人それぞれ連想する町が違っていたりする。
「ここからここまでが東京下町である」という明白な定義があるのかというと、どうやら現在はなさそうなのだ。

下町という言葉は、江戸時代に生まれたといわれている。
江戸(東京)では、高台(武蔵野台地の東端部分)にある武家地域を山の手と呼び、海や川に近い低地にあり、町人によって商業が盛んに行われている町を下町と呼んでいた。
低地であり商業の盛んな町であるという、地形的な特徴と社会的な特徴をあわせもったエリアを指していたようだ。
つまり前述の浅草のみならず、東京下町一帯が商業によって発展したのだ。

かつては地形や社会的特徴は地名に表わされていたが、その後地名が整理統合されていったこともあり、現在では地名と地形・地域社会とが一致しなくなっていったので、地名などから明白に東京下町を区分することはできなくなってしまった。

だが、おそらく浅草一帯を東京下町と呼ぶことに異論のある人はいないだろう。ほかにも、向島百花園のある向島、亀戸天神で知られる亀戸、もんじゃで有名な月島、深川、神田、根津、下谷などなど、東京湾岸や河川沿いの地域が、現在も東京下町として親しまれている。

そこにあるのは、江戸時代の定義というよりも、情緒や風情、人情など、東京下町の持つ独特のイメージだ。たしかに感覚的かもしれないが、江戸時代から受け継がれてきた文化や精神が息づいている町である。

ひと口に東京下町といっても、町によって文化も風情もさまざまだ。
昔の顔といまの顔、両方の魅力がみごとに融合した趣きある東京下町をじっくり歩いてみてはどうだろう。

北千住あたりの隅田川。運搬船が航行する