東京下町の歴史を楽しんだり、浅草やグルメを堪能しながら観光名所を巡る東京下町の観光情報誌

[2013年9月 更新]

東京下町発祥で世界に誇る日本の料理「江戸前寿司」の起源とは

いまや多くの店が「江戸前寿司」の看板を出しているが、果たしてそれはどのようにして生まれたのか。すしの先祖を探りつつ、その技法を伝え継いでいる名店「弁天山美家古寿司」の江戸前寿司を紹介。

東京下町が発祥の江戸前寿司とは?
その生い立ちと浅草の名店を紹介

郷土料理というと地方に残る昔ながらの料理を思い浮かべる人が多いだろう。だが、東京にだっていくつかの郷土料理は存在している。今回紹介するのは、東京・・・・・・というか江戸で生まれ、その後全国に広まっていった料理、「江戸前寿司」だ。
「寿司」「鮨」「鮓」と表記もいろいろあるので、ここからは単独で表す場合は「すし」と書いていく。

すしの起源を辿ると、紀元前2~3世紀にまでさかのぼる。
山岳民族が鳥や獣の肉を塩漬けにして保存していた時代があった。しかし塩は非常に貴重なものであったため、そこに炊いた米を混ぜて量を増やしていたようだ。それが中国大陸に渡ったのだが、その過程で獣や鳥の肉は淘汰され、魚介が中心となっていった。やがてそれが遣唐使、遣隋使によって日本に伝えられる。
そして生まれたのが、日本におけるすしの起源ともいえるフナ鮨やアユ鮨だ。米などの穀類を炊いたものに塩を混ぜ、魚介を漬け込む保存食で、自然に発酵を起こさせることで、酸味と旨味、さらには臭みまでも楽しみながら味わうもの。
ちなみに誕生時は酢は使っていなかった。
後、関西方面を中心に押し寿司やバッテラ、箱寿司といったものが生まれ、広まっていった。
江戸前寿司=握り寿司が存在する以前の話だ。

「弁天山美家古寿司」く

握り寿司の誕生と
すしの売り方の元祖

1804年、ミツカンの初代創業者である中野又左衛門が、醸造酢を考案し販売する。これによって酢漬けなどが生まれ、魚介もおいしく保存することができるようになっていった。
そして1827年に華屋與兵衛(はなやよへい)が「與兵衛鮓(よへいずし)」を考案する。これが日本初の握り寿司といわれている。
その後、すしを出す店は増えていく。このころのすしネタは、酢で締めたコハダ、煮たイカやアナゴ、蒸したアワビ、そのほか酢や醤油に漬けたヅケものなどで、すべて下仕事を施したものだった。冷蔵庫がない時代なので、生魚を客に出すことはできなかったのだ。

また、お店の形態は、屋台や桶を持って売り歩く「すし売り」が主だった。
酢で締めたコハダを使った握り寿司をあらかじめ作って桶に入れて売り歩いたり、火除地(ひよけち)として拡張された広小路などに屋台を出して売っていたのだ。
すしを屋台で? とちょっと不思議に感じるだろう。落ち着いて食べられないような気がするが、実はそのとおりなのだ。このころのすしは落ち着いてゆっくり食べるものではなかった。
せっかちで気が短い江戸っ子にとって、当時のすしは、パクパクっと食べてお茶を飲んですぐ帰るような、いわばファストフードだったのだ。お酒を飲みながら話をしてゆっくり、ということもなく、すしはお茶請けという位置づけだった。
屋台もほとんど立ち食い形式で、元気の出る魚の切り身と空腹を満たす酢米を一緒に、しかも早く食べられる庶民の食べ物だったのだ。ちなみにこのころのすしはひとつがかなり大きかった。つまりいろいろなネタを次々に食べるようなものでもなかったわけだ。
この形は昭和に入っても続いていた。

ヒラメの昆布締め

食べやすい大きさの細巻(さいまき)エビ

店舗形態の変化と保存技術の向上
生魚をネタにした握り寿司が誕生

お茶請けとしてひとりが3つ程度つまむようなものだったすしが、「食事」に変わっていったのは戦後になってからだった。
まず屋台で生の魚を出すことが禁じられた。このころから屋台は減り、内店という現在の形に近い店舗に変わっていった。寿司屋にはカウンターがあり、内暖簾があるのは、屋台の名残だ。屋台がそのまま店内に入ったと考えると、その形も納得がいく。
そして時代は食料難。店ですしを出すのも難しかった。そのためこのころに委託加工という形が生まれた。
米を1合持っていくと、交換ですし10カンと巻物を1本もらえたのだ。
1合でこれだけのすしを作ると考えると、まだ現在よりも大きかったようだが、これがほぼ1カンの大きさというのが常識となった。すしが「食事」に変わっていった時代だ。
1949年(昭和24年)ころの事だったといわれている。

すしネタは漬けや酢締めなどの下ごしらえをしたものだったが、昭和30年代になると冷蔵技術や物流が飛躍的に発展した。ここから生鮨が作られるようになり、全国、そして海外にまで「握り寿司」が広まっていく事になる。

戦後のすしは大体このくらいの大きさだった(左)

中央にあるのがマグロの漬け。サク取りで漬けたのでなかは赤い

「弁天山美家古寿司」の江戸前寿司は
與兵衛鮓の技法を伝えている

江戸前寿司の誕生を紹介してきたが、「江戸前」という言い方についても諸説あるようだ。
ひとつは與兵衛さんが江戸ではじめた握り寿司の技法を受け継ぐものを「江戸前」と呼ぶ説。
もうひとつは、東京(江戸)の大きな河川「江戸川」「隅田川」「多摩川」、そして江戸湾で捕れた魚介を使ったものを「江戸前」という説だ。
説はひとつ無理があるのも確か。実は明治以降、マグロの漬けをネタにしたものが大評判となり売り上げを伸ばした。しかしマグロは江戸湾では捕れていなかったのだ。
まあどちらが間違いでどちらが正解というものでもないので、ここでの結論は、どちらも間違いではないということにしておきたい。

浅草で1866年(慶応2年)に創業した江戸前寿司の名店「弁天山美家古寿司」は、與兵衛鮓の技法を守っている。下仕事をしたネタを酢飯とともに握っている。

酢飯と新鮮なわさびと、昆布締めにしたヒラメにオリジナルの煮きり醤油をサッと塗る。これこそが「美家古」の代表的なすしだ。
この煮きり醤油のほかに、すしにはアナゴとイカの煮汁「ツメ」というものがある。「ウナギのタレ」「天ぷらのツユ」と合わせて3大ソースといってもいいものだ。

下仕事をしたネタと煮きり醤油とツメ、さらに自家製のガリとおいしいお茶。これが「美家古」がこだわっている江戸前寿司だ。

アナゴ

「作るすしにはこだわりがあるが
お客さんの食べ方はご自由に」

「弁天山美家古寿司」では、マグロの漬けはサク取りで行っている。サクの状態で漬けるので、切るとなかは生の赤い状態が残っていて、1日中おいしくいただける。
ほかにもコハダの子ども、新子(シンコ)を2尾合わせて1カンにする季節限定のものも出している。こちらは、それを目当てにくるお客さんもいるほどだという。

親方の内田正さんは5代目。弟子の方は毎日ネタの下ごしらえだけでかなり時間を取られているという。
「美家古では仕事をしたネタを使う」というこだわりを持っているが、決してほかの考え方を否定しているわけではない。
「1軒の寿司屋にひとりの職人がいて、それぞれのスタンスで仕事をすればいいんです。漬けや昆布締めなどではなく、生の魚を使ったすしも立派な江戸前寿司ですよ。うちは代々の技法を守っているだけです」と内田さんは言う。

また、すしを食べるマナーや通の食べ方などについてはまったくこだわりを持っていない。
「好きなものを好きなだけ、好きな順番で自由に食べてもらえればいいと思います」
肩肘張って通ぶる必要はないのだ。「食べる順番はこれでいいのか?」などと考えていたら、おいしさも感じられなくなってしまう。
だからといって江戸っ子のようにせわしなく食べて帰ることもない。
リラックスしてきちんと味わうのがいちばん大切な事だろう。

「弁天山美家古寿司」はカウンターとテーブル席がある

記事で紹介したグルメスポット

弁天山美家古寿司

「弁天山美家古寿司」

1866年(慶応2年)創業。下仕事をしたネタを握る、代々伝わる江戸前寿司の技法を伝承している老舗。現在の親方は5代目。

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