日光の歴史を楽しんだり、温泉やグルメを堪能しながら観光名所を巡る日光の観光情報誌

[2014年1月 更新]

明治維新以降、
日光が西洋文化と交わった理由

日光には明治時代から息づく、欧州の文化が根付いている。
外国人の避暑地として愛された日光の歴史を、新旧あまたある写真と共にひも解いてみよう。

明治維新以降、日光が西洋文化と交わった理由イメージ

ある日突然、外国人さんがやってきた・・・!!
でも泊まるところがない!

二荒山神社・日光東照宮・輪王寺がそびえ立つ日光。江戸時代には、参詣や講で賑わっていたのだが、明治維新を迎えて、他の日本の土地以上に大きく変化を遂げることになる。なぜか。日本に滞在する外国人が、避暑地として日光に訪れ始めたのだ。

ことの始まりは明治4年。日本の夏の暑さに閉口して、アメリカ人宣教師であり、医師でもあるヘボン博士が日光にやってきた。しかし外国人を泊める施設などどこにもなかった。途方に暮れる博士を見て、東照宮の楽士をつとめていた金谷善一郎が、自宅に博士を招き入れたのだ。その後、善一郎はもてなしの心と好奇心から、外国人専用の「カッテージ・イン(民宿)」を開業したのである。

外国人が泊まれると聞きつけた人が、少しずつ、でも着実にやってくるようになった。金谷ホテルは外国人文化を受け入れ、西洋流のの美学や流儀、マナー、習慣を学んでいった。そして改築や増築、リニューアルを繰り返し、独特の和洋折衷建築物を生み出していったのだ。

明治32年、金谷カッテージイン(現日光金谷ホテル)前にて。真ん中が金谷善一郎

鉄道開通と共に変化を遂げる町、日光。
外国人専用のホテルも増えていった

交通の事情もよくなっていっていた。明治23年に日光まで鉄道が敷かれたのだ。日本人はもとよりだが、外国人もまた避暑地を求め、日光に出掛けてきやすくなった。そんな世間の動きがあって、裕福な外国人の客の間で、金谷ホテルの名前は評判が高まっていく。明治27年には同じく外国人専用ホテルとして、中禅寺湖に「レーキサイドホテル」(現日光レークサイドホテル)も建てられた。

JR日光駅。明治23年開業、大正元年に改築。現在も使われている

また明治32年には大正天皇(当時は皇太子)の御静養地として、田母沢御用邸が造成されている。(国指定重要文化財。現在は日光田母沢御用邸記念公園として、見学可)

 外国人達の別荘もたくさん作られていった。神橋のすぐ近くに日光金谷ホテルが位置するが、そこからさらに5分ほど歩いていったところには、日本の「蓄音機の父」と呼ばれたアメリカ人、F・W・ホーンの別荘がある(現在レストラン「明治の館」と「遊晏山房」)。神橋からバスで40分ほど行った中禅寺湖の周囲には、イギリス大使館別荘、フランス大使館別荘、もとイタリア大使館別荘などもある。

もとイタリア大使館別荘。中禅寺湖湖畔に位置する。冬期を除き、見学可

諸外国の要人との交際がある皇室、日本に滞在する上流外国人達によって、日光はいち早く西洋文化を取り入れていったのである。 また昭和4年には、浅草~日光間に東武鉄道が開通。それに合わせ、鬼怒川温泉に、金谷ホテルの鬼怒川支店として、鬼怒川温泉ホテルも開業された。

生活の一部として、いつまでも明治~大正~昭和初期の
文化や美術が生き続けていく・・・!

第二次世界大戦中には日光から外国人の姿が消えることになるが、戦後は日光金谷ホテルはアメリカ軍に接収されることとなり、また新しいアメリカ文化との出会いが生まれていく。運がいいことに、日光は戦中爆撃を受けなかった。だから今まで築き上げた建物や文化をそっくり残すこともできた。だから代々建物を受け継いできた人たちは、家具と共にとても大切に扱い、今もきれいなままで使っている。しかも後生大事に飾っておくのではなく、ちゃんと日常生活で使用しているのだ。

そう。もし日光で明治時代の家具や小物を見かけても、それはアンティーク屋さんで購入してきたものでもなければ、レプリカでもないことが多い。明治維新から大正・昭和初期までの文化が、ごく普通に、生活と共に残されている、歴史ある貴重な町なのだ。

今も昔の雰囲気をとどめている、日光金谷ホテルの客室。
【日光金谷ホテル】 住所:栃木県日光市鉢石町1300 URL:http://www.kanayahotel.co.jp/  TEL:0288-54-0001