会津の歴史を楽しんだり、温泉やグルメを堪能しながら観光名所を巡る会津の観光情報誌

[2013年11月 更新]

大河ドラマ「八重の桜」を復習しよう

大河ドラマ「八重の桜」にちなんだ会津藩にゆかりのあるスポットを紹介。周遊バスや路線バスを使えばグルリとまわれる歴史散歩だ。

大河ドラマ「八重の桜」を復習しようイメージ

会津散歩で歴史を学ぶ

鶴ヶ城周辺を歩いて「八重の桜」新島八重を想う

「幕末のジャンヌ・ダルク」「ハンサムウーマン」「日本のナイチンゲール」などと称される新島八重。
最初の夫である尚之助と籠城した鶴ヶ城を見たら、八重の生きた時代に思いを馳せながら会津を歩いてみよう。八重のみにとどまらずさまざまな碑や観光スポットがある。数奇な運命をたどった会津藩をより深く知ることができるはずだ。

鶴ヶ城(会津若松城)は1384年に葦名直盛が東黒川館を建てたのがはじまり。その後1593年に蒲生氏郷が天守閣を造り鶴ヶ城と名前を変えた。
それぞれの城主が手を加え、難攻不落の名城と広く知られるようになったのだが、幕末の戊辰戦争でついに開城。明治に入り取り壊されてしまった。
1965年(昭和40年)に再建され、2011年(平成23年)には戊辰戦争当時の赤瓦に葺き替えられた。まさに八重が見ていた鶴ヶ城が復元されたというわけだ。
(写真:会津若松市「八重の桜」プロジェクト協議会)

多くの観光客が訪れる鶴ヶ城

鶴ヶ城周辺に点々と残る会津藩ゆかりの地

新島八重は会津藩砲術師範の娘

鶴ヶ城の西に新島八重生誕地の碑がある。
1854年、会津藩砲術師範の山本権八の三女として生まれた八重は、兄から砲術指南を受け、白虎隊員にも指導をしていたといわれる。
1876年(明治9年)、同志社英学校の設立に尽力したことから、この碑は1989年(平成元年)に同志社が建立した。
路線バスの米代2丁目で下車、徒歩約2分。

生誕地の碑から鶴ヶ城を越えた東側、福島県立博物館近くには、「大河ドラマ館」がある。
ここでは大河ドラマ「八重の桜」の衣装やドラマセットなどを展示している。鶴ヶ城北出丸セットや八重の生家である山本家のセットなどもあり、八重の時代を思い切り体感できる。
まちなか周遊バス「ハイカラさん」「あかべぇ」で鶴ヶ城三の丸口下車、徒歩約3分。
2014年(平成26年)1月14日までの開催となっている。

新島八重生誕地の碑

大河ドラマ館

若き志士たち、白虎隊に思いを馳せる

会津藩の教育改革によって分散していた学校を1カ所に集約させたのが、「会津藩校日新館」。
白虎隊の志士たちなど、会津藩士の子どもたちはすべてここで学んでいた。武芸の授業もあり、武士の心得も学び、大河ドラマで一躍知られることとなった、「ならぬことはならぬ」の精神も身につけることとなった。
八重の兄や夫も教授を務めていたという。
地域コミュニティバス「みなづる号」で会津藩校日新館下車、徒歩約1分。


白虎隊が学んだ日新館を見たなら、やはり最大の悲劇を生んだ白虎隊自刃の地である飯盛山にも行っておきたい。鶴ヶ城から東に行った、椀に飯を盛ったような形をした山だ。
白虎隊については「会津を知る 白虎隊——若い命が散った会津の悲劇」を参照いただきたい。
飯盛山には白虎隊士の墓が並んでいる。そこには八重の家の隣に住んでいた伊東悌次郎の墓もある。八重に教わった鉄砲の技術は存分に発揮できたのだろうか・・・・・・。
会津若松市が見渡せる山の中腹。遠くに小さく見える鶴ヶ城が切なさを倍増させる。

飯盛山。白虎隊士の墓

もうひとりの「会津の女」西郷頼母の妻、千重子

会津藩の筆頭家老であった西郷頼母の屋敷跡は、鶴ヶ城の正面北側にある。
代々家老を務めてきた西郷頼母は新政府軍が城下に迫ったころ、長男とともに鶴ヶ城へと向かう。妻の千重子はふたりを送り出したのち、親戚の女性を集め、足手まといにならないようにと集団で自刃してしまった。その数なんと少女も含む21名。
まさに数奇な運命を辿った会津藩を象徴するような出来事として語り継がれている。
この出来事はかつての大河ドラマでも描かれたことがある。

甲賀町通りにある西郷頼母邸跡