飢饉による凶作で財政は窮迫
藩の立て直しが急務に
天明の大飢饉とは、江戸時代中期に起きた、近世最悪といっていい大飢饉である。7年間に及ぶ大飢饉により、飢餓と疫病が蔓延。とくに被害の大きかった東北地方を中心に、死者は30万人にも上った。強奪、放火が横行し、餓死者が道に溢れる悲惨な光景が各地で見られたという。
会津藩も例外ではなかった。
猪苗代の原村で130人以上が餓死したのをはじめ、若松でも約270人が死亡。異常気象による凶作で、米や農作物の収穫もできず、人々の倫理観も失われていった。会津藩には元々、藩祖である保科正之が作った「社倉制(しゃそうせい)」という米や金を備蓄しておく制度があり、困った人がいたら誰にでも米を差し出していたが、大飢饉は社倉米を食いつぶしても足りないほどだった。
しかも会津藩は、数年前から藩札の大量発行などにより深刻な財政危機に見舞われていた。そしてこの飢饉である。すでに、財政は破綻状態となっていたのだ。
このとき、5代目藩主に仕えた名家老・田中玄宰(たなかはるなか)はひとつの決断をする。
徹底した改革への研究が
経済再生の道へ
1780年(天明元年)に家老職に就いた玄宰は、この危機的状況のなか、藩主である松平容頌(まつだいらかたのぶ)に辞表を提出。家老職を辞してしまう。
玄宰には考えがあった。財政・経済、軍事、教育、人材すべてを改革することが、会津藩の再生につながる。そのためには、藩祖・保科正之が残した書物をひも解き、徹底して改革の研究をするべきである、と。
保科正之は朱子学に精通しており、社倉米を全国でいち早く導入するなど、名君として誉れ高い人物だった。
そして1784年(天明5年)、玄宰は改革の建議書を持って家老に復帰し、会津藩の大改革を敢行する。
貴重なタンパク源である鯉
養殖技術を確率させる
玄宰は藩の経済を回復させるには殖産興業の奨励にあると考え、醸造、会津漆器の改良、養蚕業の育成などに力を入れた。
そのなかで飢餓対策も兼ねて行ったのが鯉の養殖だった。玄宰は鯉の稚魚を江戸から取り寄せ、藩士に養殖技術を研究させる。貴重な高タンパク源である鯉を繁殖させて、会津人の栄養源にしようと考えたのだ。養殖技術が確立されると、鯉は農村の池や会津盆地の川と沼に放流された。当時は肉を食べる習慣はなく、海のない山間の藩にとって魚は貴重であった。玄宰に先見の明があったのだろう。会津で生まれた養殖技術は、米沢藩などの他藩にも広がっていった。
今でも鯉料理は会津の名産品として名高い。最高のご馳走といわれる「鯉の甘煮(うまに)」は玄宰の発案で作られたといわれている。
質素倹約を重んじる会津藩で、贅沢に貴重な砂糖を使った鯉の甘煮は特別な食べ物だったのだ。
また切腹を命じられた武士の最後の膳には、鯉料理が必ず乗ったといわれている。
大飢饉による思い切った藩改革から生まれた鯉料理は、会津の郷土料理のひとつとなったのである。
現在、鯉の甘煮が食べられる店については「会津の隠れた名物郷土料理『鯉の甘煮(うまに)』を食べる」で紹介している。