会津の歴史を楽しんだり、温泉やグルメを堪能しながら観光名所を巡る会津の観光情報誌

[2014年3月 更新]

ラストサムライ「河井継之助」の足跡

作家・司馬遼太郎の『峠』で広く知られるようになった、長岡藩(現在の新潟県長岡市)最後の侍、河井継之助。南会津郡只見町は、そんな継之助ゆかりの地であった。彼の生涯とともに紹介。

「東武鉄道で只見へ」ということで毎年催行されて好評なバスツアーがあります。
会津鉄道の会津田島駅から只見へ、ひとり片道2000円。完全予約制。
詳しくは下記リンク先をご覧ください。

【只見町観光まちづくり協会】 ※平成26年度も催行予定です
http://www.tadami-net.com/access/bus-timetable.html

ラストサムライ「河井継之助」の足跡イメージ

「長岡藩の慶応改革」の立役者、河井継之助

河井継之助は、1827年(文政10年)長岡藩の中堅藩士・河井代右衛門秋紀の長男として城下に生まれた。幼少のころから、負けん気が強く、激しい気性の持ち主だったようだ。
文武ともに秀でていた継之助は、砲術や剣術、馬術などの武芸を学び、陽明学など勉学にも励んだ。

1842年(天保13年)、継之助は15歳で元服。8年後の1850年(嘉永3年)には、長岡藩主の側近の妹・すがと結婚する。
そして1852年(嘉永5年)ごろから遊学に出た継之助は、江戸では佐久間象山の門をたたき、備中松山では山田方谷に教えを受ける。また、長崎や横浜では西洋をはじめ世界動向についての見聞を深めていった。

1865年(慶応元年)、39歳で長岡藩の郡奉行となった継之助は、その後も町奉行、奉行、上席家老へと出世していく。
政務を担うことになった継之助は、藩主・牧野忠恭、牧野忠訓のもとで藩財成の確立や兵制改革など次々と藩政改革を断行。現在でも「長岡藩の慶応改革」として広く知られている。

河井継之助記念館

新政府軍に追われ、塩沢村(現・只見町)が終焉の地に

1868年(明治元年)、鳥羽・伏見の戦いに端を発し、戊辰戦争が始まる。
武装中立を唱えた継之助は、小千谷(おじや)の新政府軍に乗り込み、軍監だった岩村精一郎に談判するも決裂。こうして、長岡藩も参戦することとなった。

長岡軍の軍事総督となった継之助は、巧みな戦術で新政府軍の大軍と互角に戦ったという。一旦は落城した長岡城を奪還するも、継之助は奇襲作戦中に流れ弾を受け重傷を負ってしまう。
指揮官の負傷により、長岡藩兵の勢いは低下。ふくれあがっていく新政府軍の兵力に太刀打ちできずに再び落城し、長岡軍は会津へと落ちのびることとなる。

傷を負った継之助も、再起をかけて会津をめざし、千数百名もの藩兵たちと長岡と会津の国境である八十里を越えた。この峠越えはよほど厳しいものだったのだろう。ようやく入った会津藩領の塩沢村(現・南会津郡只見町)で休息をとることになった。そこで傷の手当を受けるも、継之助の負った傷は既に手の施しようがなく、医師の矢沢宗益宅でその生涯を閉じた。

ガトリング砲のレプリカ

ガトリング砲のレプリカ

継之助の最後の足跡が色濃く残る只見

現在、只見町塩沢には、継之助に関する貴重な史料を展示する「河井継之助記念館」がある。館内には、長岡城の攻防戦で使われたガトリング砲の展示や継之助が息を引き取った「河井継之助終えんの間」などがあり、いずれも幕末時代の雰囲気が感じられる。
実は継之助の終焉家(医師の矢沢宗益宅)は、ダム建設によって湖底に水没することが決まったため、1961年(昭和36年)に山腹へ移築。1993年(平成5年)、現在の記念館内に再移築されたのだ。

継之助の墓は、長岡藩士の菩提寺である新潟県長岡市の英涼寺にあるが、只見町塩沢の医王寺にも細骨を葬った墓がある。継之助が只見で過ごしたのは、わずか5日ほどだったが、その終えん地となった塩沢の村人は、長岡藩士が拾い残した細骨を集め手厚く埋葬したのだ。
医王寺では、継之助の命日である8月16日に毎年墓前祭を行なっている。

司馬遼太郎の『峠』の主人公として、一躍知られるようになった幕末のラストサムライ、河井継之助。彼の生涯最後の足跡が色濃く残る南会津郡只見町を、ぜひ『峠』とともに歩いてみてはどうだろう。幕末の戦乱に散った継之助の無念さが伝わってくるかもしれない。

移築された「継之助終焉の間」

移築された「継之助終焉の間」