会津の歴史を楽しんだり、温泉やグルメを堪能しながら観光名所を巡る会津の観光情報誌

[2013年12月 更新]

「大内宿」の歴史を知る

江戸の宿場町の光景を今もそのままに残す、南会津郡下郷町の「大内宿」。「国選定重要伝統的建造物群保存地区」という国の文化財に指定され、多くの観光客が訪れるようになった現在。その過去を学ぼう。

「大内宿」の歴史を知るイメージ

宿場町として栄えた大内宿

江戸の宿場町の光景を今もそのままに残す、南会津郡下郷町の「大内宿」。
「国選定重要伝統的建造物群保存地区」という国の文化財に指定され、年間およそ120万人もの観光客が訪れる大内宿の歴史を簡単に紹介しよう。

江戸時代、会津藩主の保科正之によって会津城下と下野(しもつけ)の国(現在の日光市今市)を結ぶ32里(約130km)に及ぶ会津西街道が整備された。
別名「下野街道」「南山通り」などとも呼ばれた会津西街道。その宿場町のひとつとして栄えたのが大内宿である。
若松城(鶴ヶ城)から5里(約20km)の距離にある大内宿には、本陣(大名や旗本、幕府の役人などが使用した宿舎)や脇本陣(本陣の予備)が設けられ、会津藩をはじめ新発田藩、村上藩、庄内藩、米沢藩などの参勤交代や江戸廻米の運搬路として重要な役割を果たしていた。

大内宿全景。土日祝日は多くの人が訪れる

行き交う人を侍の姿にして想像してみる。まるで江戸の町にいるような気分に

半農半宿から農村へ

ところが1680年、幕府は五街道(東海道、日光街道、奥州街道、中山道、甲州街道)以外の街道(脇住環)の通行に対する取り締まりを行い、大内宿を通る会津藩の参勤交代がなくなってしまった。
それでも会津西街道は行商人の運搬路としての活路を残してはいたが、1683年の日光地震による山崩れで通行不能となり、運搬路という活路まで断たれてしまう。
その後1723年に復旧はしたものの、運搬路の代替となった他の街道から通行人を奪還することはままならず、宿駅としての顔と農村としての顔を併せ持つ「半農半宿」の時代が続いたといわれている。

こうして徐々に宿場町としての賑わいを失いつつあった大内宿は、1884年の日光街道の開通を皮切りに衰退を見せ、やがて完全に宿駅としての役割を終えることになる。

囲炉裏がある店が多い。囲炉裏で岩魚などを焼いている

観光地となった大内宿

高い山々に囲まれた山間の集落である大内宿は、外界との往来が遮断され、時代に取り残されたことが幸いして、賑わいを見せた江戸時代そのままの茅葺き屋根が連なる宿場町の面影を今に残すこととなった。

一時は、近代化を望む住人たちと、旧宿場町の保存を訴える研究者たちで二分したが、1981年に国の「国選定重要伝統的建造物群保存地区」に指定され、急速に保存活動が進んだ。

現在30軒以上にも及ぶ茅葺き屋根の民家は、蕎麦屋や土産物屋、民宿などに様変わりし、多くの観光客を迎え入れる県内有数の観光地となった。
江戸時代の賑わいを再び取り戻したことになる。

かつて会津藩主や行商人たちが賑々しく行き交った時代に思い起こしながら、江戸の情緒そのままの大内宿をゆっくりと歩いてみてはどうだろう。

会津名物のしんごろうも焼かれている

いも餅、そば団子、玉こんにゃくなどが焼かれ、香ばしい匂いが漂う