会津の歴史を楽しんだり、温泉やグルメを堪能しながら観光名所を巡る会津の観光情報誌

[2013年11月 更新]

「八重の桜」・・・・・・新島八重の半生をたどる

幕末のジャンヌ・ダルクといわれる新島八重とはどのような女性だったのか。数奇な運命に翻弄された会津藩とは・・・・・・。そして今回は会津中央エリアの魅力も紹介。

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これまで、会津の歴史と聞いて真っ先に連想するのは「白虎隊」だったが、最近では大河ドラマのヒロイン「新島八重」を思い浮かべる人も多くなったことだろう。
では、新島八重とはどんな女性だったのか。
波乱に満ちた彼女の人生を追ってみることにしよう。

会津藩の砲術師範を務める山本権八の三女として生まれた八重は、幼少時から男勝りな性格だった。
後に同志社創立に協力した兄・覚馬や父の影響からか、幼少期から砲術に興味を持ち、女だてらに鉄砲の名手でもあった。
当時としてはかなり晩婚の21歳で、川崎尚之助と結婚した八重だったが、会津戦争(戊辰戦争の局面のひとつ)では、断髪・男装し、スペンサー銃を持って夫とともに戦った。
白虎隊が飯盛山で自刃した幕末の動乱下で、女性である八重も会津のために奮戦したのだ。

しかし、この戦いで会津藩は敗れてしまう。
敗戦後、捕虜となった夫と生き別れ、戦火で父を亡くした八重は、京都にいるとわかった兄の覚馬を頼って上洛する。

名城、鶴ヶ城

ハンサムに生き抜いた八重の生涯

上洛した翌年の1872年(明治5年)、八重は兄の勧めで女性に読み書きや裁縫などを教える女紅場で働きはじめ、英語や印刷などの西洋文化や技術に触れることになる。
また、兄と親交のあった準宣教師、新島襄(にいじまじょう)と出会い、1876年(明治9年)に2度目の結婚をする。
レディファーストの精神が身についていた襄と、男性とも対等に渡り歩く八重とは、お似合いの夫婦だったという。
しかしこの時代、夫よりも先に車に乗り込む八重の姿を見て、世間からは悪妻だと罵倒されることもあったというが、そんなことに動じる八重ではなかった。
八重の夫・襄は、同志社の創立者としても知られ、八重もその設立や運営に尽力する。

1890年(明治23年)、襄は病で急逝するが、夫の死後まもなく八重は日本赤十字社に入社。
1894年(明治27年)の日清戦争では従軍看護婦として働いた。
看護師の地位向上に貢献したとして、皇族以外の女性としては初めて政府から勲七等宝冠章、勲六等宝冠章を授与されている。

会津の藩祖である保科家の菩提寺、善龍寺。多くの会津藩士や家老、西郷頼母とその親戚家族が眠る墓がある。(写真:会津若松市「八重の桜」プロジェクト協議会)

東西南北中央で分かれる会津17市町村
会津中央エリアはどこ?

会津地方の中心、歴史深い会津若松市

17市町村で構成される会津のなかで、「会津中央エリア」に分類されるのが、会津若松市、会津美里町、会津坂下町、湯川村の4市町だ。

江戸時代に会津藩の城下町として繁栄した会津若松市は、鶴ヶ城(若松城)を筆頭に、白虎隊、新島八重、新撰組など、幕末ゆかりの名所旧跡や、明治・大正の薫りが漂う七日町通りなど、歴史好きにはたまらないエリア。
市の東側は猪苗代湖、南側には会津高原が広がり、風光明媚な自然も楽しめる。東山温泉や芦ノ牧温泉などの名湯、有数の酒蔵もあり、癒しスポットも満載だ。

会津若松駅前にも白虎隊士の像がある

歴史に触れ、自然と名産に触れる会津中央エリア

会津若松市の西側に位置し、稲作が盛んな会津美里町は、会津高田町、会津本郷町、新鶴村が合併して2005年に誕生した町だ。
旧新鶴村の山沿いでは、30年以上も前から白ワイン用のぶどう品種シャルドネが栽培され、新鶴ワインが作られている。

会津美里町の北部に位置する会津坂下町は、かつて馬の競り場があったことなどから、桜肉と呼ばれる馬肉を提供する店が多く軒を連ねている。ここでしか食べられない馬肉料理もあるので、ぜひ現地で味わってほしい。

会津坂下町の東部に位置し、福島県内でもっとも小さな自治体である湯川村は、水と土壌に恵まれた米どころ。アスパラガスや会津牛などの名産と田園風景に恵まれた美しい村だ。

こうしてみると、会津中央エリアは、深い歴史が刻まれた町並みと雄大な自然、名産品が豊富にある、なんとも懐深いエリアなのだ。
歴史上の人物を偲びながらの時代散歩など、ぜひじっくりと楽しんでみてほしい。

飯盛山から一望できる会津若松市内

こちらは鶴ヶ城天守閣から見た城下町